私たちの祖先は愚かではなかったと思います。有りもしないものに名を付けたりしないはずです。霊は存在します。
一般的にはオカルト用語と等しい扱いをされており、生命を構成するもののうち肉体を除いたものが霊と呼ばれます。
意識や記憶を持つ知性体であり、物質で構成されていないため死後、つまり肉体が活動を停止したあとでも活動するもののようです。
死が生命の終末ではない、という文化・思想・願望においては中核を成す要素です。
霊が知性の主体であれば、脳の位置付けはどのようになるのか興味深いところです。
脳が機能を停止し脳死と判定されれば、法的には死とみなされます。さらに、心臓が停止し体温が下がることによって、一般的にも死と認識されます。
このように死は明確なのですが、存在が消滅するのはいつでしょうか。
主体としての消滅は死と同時です。つまり、私の主観では私という存在は私の死の瞬間に消滅します。
客体としての消滅は、存在に関する記憶・記録・遺物・伝承などの消滅と同時です。つまり、私もしくは私らしき人物が存在したことを認識できる人物が存在しなくなれば、私の存在は消滅します。
客体としては、人類の滅亡まで存在できる可能性があります。ひょっとしたら、人類以外の知性によって人類の滅亡後も存在できるかもしれません。
『仮想化』で解説したとおり、私たちの脳内には全く会ったこともない人物も含めて、他人が仮想化されて存在しています。
もちろん、よく知った親しい人物も仮想化されて存在します。仮想化された人物は、モデルとなった本人から見て客体ですので、本人の死後も存在します。
私たちの『現実』は全て脳内にあります。脳内に存在すれば、姿も見えますし声も聞こえるでしょう。触れることすらできるはずです。触れることすらできるはずです。
これが霊と呼ばれるものの実態です。
霊を構成するものは情報と、それを扱う脳のみです。情報だからといって存在しないとは言えません。
この文章をお読みになる前からご存知だった方もいるでしょうし、私たちの祖先も認識していたことでしょう。長々しい定義を必要とするからこそ『霊』という呼称を必要とし、その存在が誤解されることになったのかと推測します。
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